~モルダ~
気がつかないうちに現世の季節はだんだん春に変わってきたようで冬の寒さも少し和らいでいた。
アズはめぐみとして国語ノートにシャーペンを走らせていた。
相変わらずつまらない授業だ。
ふと窓の外を見ると切れ間のない白い曇り空の下、体操着姿の生徒達が校庭をぐるぐると走っていた。
現世ではあれを持久走というらしい。
背の高さから見てあれは一年生か?
しばらくすると学校のチャイムが鳴り、国語の先生が教室を出るころには校庭の生徒達も下駄箱に戻り始めていた。
「おい!松井便ジャミン!」
「とろいぞ!モンスター椋助」
聞き覚えのある声は左斜め上の教室から聞こえてきた。
あの日男子トイレで聞いた声だった。
窓を覗き込んでみると誰が言ったのか特定されないためか、カーテンで顔を覆い隠して叫んでいた。
うるせぇ!!と下で言い返しているあの子がたぶん椋助だ。
あの子が毎日こんな目にあっていると思うと胸が痛くなる。
でも結局、私は何もできず今無力にここに立っている。
あの少年を助けてあげられなかった。また…
《人間を助ける必要はあなたには全くありません。そのような余計なこと考えられるほど人間共存プログラムは容易な任務ではありません。任務にもっと集中しなさい》
昨日陛下から届いた報告書の返事はあまりにも予想外なものだった。
“人間なんぞ助ける必要はない”
そんな言葉を聞かされたら誰だって、報告書を丸めてゴミ箱にたたきつけたくなる。
ナタから人間の事をいろいろ聞いている私にとっては、なんで陛下はああやって人間を軽蔑しているのかわからない。
でもとにかく、あの少年のために何かしないと…
アズは帰り道の途中にある公園のベンチに腰掛けた。
公園には青々とした木々がふさふさと生い茂っていて、どこかの森に繋がっていそうだった。
あの中学校から離れたこの浅区という地域は本当にいいところだ。
少しの間羽を伸ばしていると、あの少年の声がまた聞こえたような気がした。
気のせいか?
しばらく耳を澄ませてみる…
すると向こうの方から猛獣だからこそ聞き取れるくらいの少年の小さな声が聞こえてきた。
アズは反射的に声をたどって、遠くに見える豆粒サイズくらいの少年を見つけ出した。
彼を見かけると必ず現れる男子集団はまったく見るだけで腹が立つ。
でも、今この公園には自分以外誰もいない。
もしあの少年を助けられるとしたら…
今しかない。
アズは茂みに隠れ、男子集団と少年を観察した。
男子集団は少年のバッグを奪ってブンブン振り回している。
アズは腕を伸ばし、かまえた指先をバッグを握った男子の手にグッと狙いをさだめる…
そして
ピシュン!
レーザービームのように火花を飛ばした。
火花はみごとに命中し、さらに男子らの足元にもパパンッ!と五、六発当てた。
男子らが驚いているすきに少年はバッグを取り出し逃げていった。
私ができることとしたらこうゆう事しかできない。
本当はもっと直接助けてあげたいが。
男子集団に気づかれないようにそっとその場を離れようとした瞬間、いきなり誰かに左手を強く掴まれた!
アズは振り返る余裕もなくどんどん森の奥へ引きずられていく。
「痛い!離して!離してっ!」
体を大きく揺さぶって左手を引き抜こうとしても、付け根を掴まれているせいで全く抜けない。
(コノヤロッ!)
アズは人間の前で隠していた爪を出し、思い切りひっかいた。三本のひっかき傷は相手の学ランを貫き、血で赤くにじんだ。
(…しまった!)
赤く染まった傷を見てアズは慌てて爪をひっこめ、まるっきり獣になった右手を急いで人間の手の形に戻した。
やってしまった。
どう見たってこれは人間がすることじゃない。どうしよう!?
正体がばれてしまう!
いや、たとえ今正体がばれなくてもいずれこいつが周りの人間にこのことを話してしまうだろう。
どうしたらいい…
アズの左手を掴んだ少年はそのまま逃げ去って…ではなく、その少年は少しアズを振り返っただけで何も起きなかったかのように彼女の左手を掴んだまま森の奥へと引っ張り続けた。
アズは自分のしてしまったことに全く驚かない少年に啞然とした。
そして少年はある程度奥へ進むと、森の中の階段の途中で足を止めた。
アズの手を離すとさらに驚くべきことを言った。
「お前ナミダ族なのか?」
「違う」
「さっき魔法使ってただろ」
「なんであんたがナミダ族のこと知ってるんだよ」
「魔法が使えるのはナミダ族と魔法人だけ」
「うるさいそれ以上しゃべるな」
顔を伏せたアズの髪が炎を上げて揺らめくと、少年はハッとした様子で問い続けた。
「お前…俺をよく見ろ」
「だから、それ以上」
「俺の姿をよく見ろ!」
「何度言ったらわかっ…」
怒鳴ろうとアズが少年の顔を見たとたん、思わぬ光景が目に飛び込んできた。
少年は人間の姿からだんだんと獣の姿に変わっていった。
それはアズのように黄色い血管を体中に張り巡らし、アズのように長い尻尾が生え、手からは先ほど彼を傷つけた爪が生えた。
そしてアズの赤い目の代わりにエメラルドグリーンに輝く目を持っていた。
「アズ、俺が誰だか覚えているか?」
このとき、アズはこれまで失われていた記憶をすべて思い出した。
―木陰が揺らめく熱帯雨林、懐かしい木々のかおり、木洩れ日の暖かさ、小さな子供たちの声、そんな子供たちを優しく見守る大人のナミダ族たち、小さな私とじゃれあう二人の男の子、そのうちの一人の名は―
「モルダ?モルダなの?」
アズの口からそう言葉がこぼれ出た。
少年は優しくうなずくようにゆっくりと瞬きした。
その目は“俺を思い出してくれたんだ”と安どの表情を浮かべていた。
アズは少年の正体がわかると、今までずっとこらえていた感情すべてがあふれ出た。
その感情は記憶がないことの不安、仲間がそばにいない寂しさ、ふるさとや仲間がそばにいないことさえ忘れてしまっていた悲しさだった。
アズはナタやシャーロと出会う前からずっとこの感情に付きまとわれていた。
でも、いくら感情を消そうとしても、ただ自分を悲しみの底へ突き落すだけで、何の解決策にもならなかった。
だから、この負の感情から逃げ、誰にも言えず何も話さず、絶対にこの感情を思い出さないように苦労してやってきたのだった。
その感情をがんじがらめに縛っていた鎖がはずれ、力が抜けたアズは地面に座り込んだ。
そして爪の生えた手で顔覆いながら泣いた。
少年はアズの背中に優しく手を回し大きくさすり、今までアズがこらえてきた苦しさを包み込んで癒した。
そう、彼の名はモルダ・バイト。
決して血はつながっていないが、シーラという心優しきナミダ族に見守られながら親なし同士兄弟のように育ってきたのだった。
―あの日、まだ体がころころと小さかった頃、いつものようにアズとモルダともう一人の血のつながらない兄弟は一緒に遊んでいた。ちょっとした興味本位でいつもより少し遠くへ遊びに行った。
ただほんの少し行っただけだった…
突然、目の前に黒い大きな影立ちはだかった。その手にはちょうど体を包み込めるほどの大きな網が…
「悪魔族だ!逃げろーみんな早く逃げろ!」
木の上からオスのナミダ族がそう叫ぶとアズたちは小さい体をくるりと瞬時にひるがえし逃げた。
まだまだ短い手足を限界まで伸ばし、後ろも振り返らずに樹木を縫うように走り抜けた。
「シーラ!シーラ!」
温かな仲間の姿が見える。
あともう少し!あともう少しで仲間のところに帰れる!
そのとき、大きな網に覆われアズは足をすくわれた。
兄弟達も悪魔族に捕まってしまった。
「やだ!いやだ!シーラ助けて!」
何匹ものナミダ族が飛び掛かっても、いくらアズが悪魔族の腕に噛みついても、悪魔族はアズを抱えたままびくともしなかった。
襲ってくるナミダ族に電流の弾丸を次々と打っていく。
そしてアズの首にスタンガンを押し当てた。
ビシャン!
徐々に目の前が暗くなってく…暗くなっていく視界の中でシーラが私たちの声を必死に叫ぶ声だけが響いていた―
これがふるさとを見た最後の光景だった。
アズ、モルダそしてもう一人の兄弟はその後悪魔族の組織に連れていかれ、そこで生き別れになってしまったのだった。
「もう二度と会えないのかと思った」
アズとモルダは森の山を少し上がり、木でできたベンチとテーブルがある開けた場所に座り込んだ。ベンチに座るより地面に座る方がよっぽど落ち着くのだった。
「俺は政府からの任務は全く乗り気じゃなかったんだが、まさかアズと再会できるなんてな」
「どうやって例の組織から逃げ出したの?」
「大爆発が起きてさ。あの夜、たしか鉄鋼を運んでいた時。その騒ぎの間に逃げだした」
「大爆発…あぁ、あれ私の仕業かも」
「お前にあんなことできないだろ」
「いや、実は私炎のフレアだったんだよ。あの組織の人にそう言われた」
「本当か?」
「うん、小さい頃から髪が炎みたいにうねっていたのもそのせいだよ」
「…全く気がつかなかった」
「私もびっくりしたよ。あっそういえば、あともう一人兄弟いたよね。白い髪のえーっと…」
「ダグドゥのことか?っていうか、そんなことも忘れたのか?ずっと一緒にいただろ」
「いや、あの…よくわからないんだけど、記憶喪失っていうのかな。ある時から記憶がなくなってて」
アズは懸命に言葉を選んで記憶が消えた不思議な現象について説明した。
「だから、モルダに会うまでどこで育ったのかも、誰と一緒にいたのかもわからなかった」
「で、今全ての記憶を思い出したってことか」
「そう」
「ショックで全て忘れていたのか、それともあいつらが意図的に記憶を消したのか…まぁあんな組織にいたんだ。何されても不思議はない」
気づくと見上げた空はオレンジから燃えるような赤へ、美しいグラデーションを描いていた。
「もうそろそろ帰ろう。モルダはどこに住んでいるの?」
「すぐそばのあの洞穴ん中」
「えっ!家に住んでるんじゃないの!?」
「家って何が?」
「てっきり政府が住む場所とか用意してるもんかと…」
あきれた。任務を頼むだけ頼んでおいて、頼まれる側のことは何も考えていないのか。真剣に任務に取り組んでいる自分が馬鹿馬鹿しく思えた。
「なら、うちに来なよ」
「うち?」
「私今住まわせてもらってんの」
「いいならそれで…」
バキッ!
誰かが枝を踏む音が聞こえた。再会した兄弟との和やかな雰囲気の中に緊張が走る。二人が一斉に振り返ると、一人の人間が慌てて逃げ去る姿が見えた。
「まさか!」
二人は枯れ葉で埋もれた斜面を滑り降り、自分たちの目撃犯を追おうとした。
しかしもうそこには誰もおらず、日は落ち、暗闇の中にスポットライトで照らされたコープの文字が浮かんでいるだけだった。
「見られた…?あの逃げたやつに私たちの姿を見られたのか?」
「わからない…でも暗がりだったからわからなかったのかもしれない」
二人はただただ、コープの文字が浮かぶ一本道を遠く見やっていた。
緊張感で固まっていた時間が再び動き出し、公園の木々が優しくなびきだした。