その男子高校生は、卒業論文の締め切りに追われて苦しんでいた。
「どうしよう。明日がいよいよ提出期限だというのに、書くべきことがまったく思い浮かばない。俺の高校生活はそんなに何も残らない退屈なものだったんだろうか」
「そのとおり」
近くでカン高い声が響いた。
「誰だ」
「お前が悩んでいる卒業論文だ」
「えっ」
机の上の卒業論文を見ると、そこからニョキニョキと手足と口が生えてきたではないか!
「ど、どうなっているんだ」
驚く高校生を前に卒業論文はその口を開いた。
「お前があまりにもウジウジと悩んでいるので、卒業論文の神様が俺をつかわしたのだ」
「じゃあ、後は寝てても卒論は完成するってわけだな。助かった!」
「勘違いするな。お前のことだ。書けるのはお前しかいない。書く気がないなら、無理やりでも書かせてやる」
言うや否や、卒業論文は机をべたべたと触った。
「何してるんだ」
「今に分かる」
やがて机はどろどろと溶け出し、跡形もなく消滅した。
「……今に分かった」
「卒論を終えなければ、次はお前がこの机と同じ道を辿ることになる」
卒業論文は不敵な笑みを浮かべながらじりじりと高校生へ迫った。
「やめろ、来るな」
「やめない、行く」
卒業論文は高校生にぱっと飛びかかった。
「今すぐ完成させられなければ、お前を溶かす!」
「ひぇええええええ!」
すんでの所でかわした高校生は必死で部屋から逃げた。
「逃がさん!」
廊下で逃げ回っていると、高校生の母が通りかかった。
「母さん助けて!卒業論文に追われているんだ!」
「あれほど言ったのに、ダラダラと怠けてたからでしょ」
母は呆れたが、
「待てー!」
「ひぇー!」
「……本当に卒業論文に追われている」
我が子を追いかけ回す卒業論文を見て唖然とした。
「助けてくれー!」
高校生は近所の商店街を必死で逃げ回った。
「花屋のおばちゃん、助けて!卒業論文に追われているんだ!」
「そういうことはうちじゃなくて担任の先生に、」
「待てこらー!」
「ひぇぇ、来た!助けてー」
高校生は再び逃げ出した。
「あらま、確かに追われてるわ」
高校生は卒業論文から逃げ回り、隣の町をかけ回った。
「待てーっ!」
「待ちたくない!」
高校生は隣町を出て、更にその隣り町まで走り、そのまた隣町の有名な山に登った。
「はぁ、はぁ。ここまでくれば……」
「ここまでくれば、景色がいいねぇ。早く卒論を書け!」
「ぎゃああああああああああ」
再び逃げ出した高校生と卒業論文の追いかけっこは終わりを知らない。
高校生は走る車を追い越しながら首都高速の中を逃げ回った。
「あっ、奈良の大仏さん、こんにちは!」
「大仏さん、こいつが卒論を書けないもんだから……」
高校生は琵琶湖の海の上を水面走りで走った。
「我ながら、こんなことができたのか」
「俺も我ながらできちゃうのだ。卒論を書け!」
卒業論文も水面走りができるようである。
「そうだ、ここは泳いで逃げよう。卒業論文は紙だから、俺の真似をして泳ごうとすれば破れるはず」
高校生は琵琶湖の海を泳いで渡ろうとしたが、
「あぶぶぶぶぶ」
自分がカナヅチであることを忘れてはいけない。
「泳ぎはダメか」
ひたすら走るしかないのである。
「お土産いかがですか?」
「あ、下さい。卒業論文、北海道空港のお土産のお菓子で手を打たないか」
「どれどれ」
卒業論文はばりばりと北海道空港のお土産をほおばると、
「ウマい。ウマいものを食べて、ますます卒論を書かせたくなってきた」
だそうである。
「しまった。逆効果か」
「お前が県や方角をまたいで行ったり来たりした所で無駄だ。日本中どこまでも追いかけてやる」
「ならば、国外逃亡だ!」
高校生は海を走って海外へ辿り着いた。
「おお、自由の女神よ!」
「女神様、こいつは卒論から逃げようとする悪い奴です。死刑にしてやってください」
「ちくしょう、どこまでも逃げてやるからな!」
高校生の逃亡は終わらない。
「熊貓坤,請幫幫我 (パンダ君、助けておくれ)」
「熊貓坤,這是一個反派,正在逃離畢業論文 (パンダ君、こいつは卒論から逃げている極悪人だよ)」
2人とも外国語を喋れるようである。
「Aide du pain français!(助けてフランスパン!)」
「Pain français, ne laissez personne fuir votre thèse de fin d’études! (フランスパン、卒論から逃げるような奴には食べられないようにね!)」
もう高校生も卒業論文もヤケクソだった。
「どいつもこいつも、助けろー!」
「助けるなぁー!早く卒論を書け―!」
追いかけっこを続ける2人の目前ではオリンピックの陸上競技が行われていた。
陸上選手が全力で走る横を、
「卒論を書け―!」
「書きたくあらん!」
高校生と卒業論文がそれを上回る猛スピードで駆け抜けていく。
2人のスピードは歓声の嵐を呼び、オリンピックコーチが声をかけた。
「素晴らしい。世界最高記録だ!君、是非とも陸上選手になって次のオリンピックにも出ておくれ!」
「ダメです俺が許しません!こいつには陸上選手としてオリンピックに出る事より大切な事がある」
「何だねそれは」
「高校生として、卒論を書く事……」
言い終わる前に2人は風のような速さで走り去っていた。
「せっかくオリンピックの陸上選手になれるチャンスだったのに、お前のせいで!」
「卒論から逃げるような奴にオリンピックの陸上選手が務まるか」
「務まるさ。大体、オリンピック選手が全員卒論書いて高校卒業したかどうか分からないだろ」
「いや、分かる!卒論も書けないでオリンピック選手のようなエリートにはなれない。早く書け!」
「そんな風に強制されると、ますます書きたくなくなるんだよ!」
言い争いながら横目に辺りの景色を見ると、ピラミッドにキラウェア火山にモアイに地上絵に……様々なものが目に留まる。
「なぁ、卒業論文」
「何だ?改まった所を見ると、さては書く気になったな?」
「いや、そうじゃないけど」
「チッ」
「あの家、なんか見たことないか?」
「ん?ほんとだ。なーんか見たことあるな……っておい、ここはお前ん家じゃねぇか!」
「あっ、そうかあ!ただいま~」
高校生はほっとして家に帰った。
「高校生!卒業論文に追われてどこ行ってたの!」
母はそうとうに驚いた様子である。
「どこに行っていたかと言いますと、近所の商店街から奈良の大仏さんの所から琵琶湖から北海道空港のお土産屋さんから自由の女神像の前からパンダの住む中国から、あれやこれやそれや……」
印象に残った場所を挙げながら、高校生はふと気付いた。
「あ、何だかんだで世界一周してきたわ」
「せ、世界一周!?びよーん……」
母は驚きのあまりその場で失神してしまった。
「そうか、気付けば俺も一緒になって世界一周マラソンをしてしまったのか。いやぁ、爽快だった」
卒業論文も家に上がり込んで感慨に浸った。
「世界一周は美しいが、世界二周は美しくない。もう追いかけっこはやめだ。しかし高校生よ。世界一周した後では、何か見えてきた世界もあるだろう」
「世界一周して見えてきた世界かぁ……」
確かにインドアな高校生にとって、今回の世界一周マラソンは興奮と刺激で溢れていた。
「お前から逃げるのに必死だったけど、落ち着いて考えればかなり楽しかったよなぁ。何か俺、卒論ごときで悩んでいたのがバカバカしくなっちゃったよ」
「よく言った!そのバカバカしさをバネに、バカバカしい卒論を書くんだ。卒論なんて、大人になって読み返したらみんなバカバカしいもんだよ。このバカバカしさこそが、青春なんじゃないか」
「バカバカしさこそ、青春……俺は何か大切なものを見失っていた気がする。今こそそれを取り戻す時だ!卒業論文、俺はお前を書くぞ!」
「おう!」
高校生はペンを取り、卒論の1行目を書き始めた。
次の日。
「あと卒論を提出していないのはお前だけだ。締め切りは今日だぞ」
国語教師が圧をかけようと、もう高校生は動じない。
「書けました」
「どれどれ」
教師は高校生の提出した卒論を読んだ。
バカバカしい卒業論文
卒論に悩みました。
すると、卒論が怒りました。
私は怒った卒論に追われました。
卒論は長い足でどこまでも追いかけてきました。
私は短い足でどこまでも逃げました。
私は卒論から逃げ回る中で奈良の大仏を見ました。
琵琶湖の海を水面走りで駆け抜けました。
北海道空港でお土産を買いました。
お土産を食べても卒論の怒りは静まらず、むしろ悪化しました。
私は国外逃亡しました。
自由の女神とパンダとフランスパンに助けを求めました。
オリンピック会場で選手の横を駆け抜け、スカウトされました。
私はオリンピック選手になりたかったのに、卒論が断りました。
走り続けて気が付けば、そこは我が家でありました。
私は世界一周マラソンをしていたことに気付きました。
広い世界に触れ、私は卒論程度で悩んだのがバカバカしくなりました。
バカバカしいので、こうして適当に仕上げました。
適当すぎて、我ながら思わず笑ってしまいました。
この卒論も一緒になって笑いました。
わっはっは!でおしまいでありました。
作文を読んだ教師の手がわなわなと震えた。
「どうです?実話ですが、個性的でしょう」
「……」
「俺、思わず自分に賞をあげたくなっちゃった」
「……なら、賞をやろう」
「やった!」
「こんなおかしな卒論を書く生徒は……退学で賞(しょう)!」
担任も校長も高校生がふざけていると憤慨し、結局は卒業を目の前にして退学となってしまった。
「こんなことになるなんて……俺の人生を狂わせた卒業論文が憎い。あいつ、今度会ったら……」
「ようやく会えたねぇ!」
「へっ?」
高校生の前に現れたのは、彼をスカウトしたあの時のオリンピックコーチである。
「あなたは!」
「君のことが忘れられず、ずっと探してきたんだ。あのスピードは超人ものだよ、キミ。新人選手として次の世界大会に出てくれるね?」
「はいっ、喜んで!」
「うむ。それじゃあ次の大会に備えてカナダで訓練を受けてもらおう。私は後から飛行機で行くから、君は先に行っていてくれたまえ」
「分かりましたあ!」
言うや否や高校生は走り出し、再び琵琶湖の海を水面走りで渡った。
「高校は中退させられてしまったけど、卒業論文のお陰で秘められた走りの才能が開花して自分の生きる道が見つかったからめでたしめでたし!」
次の世界大会が楽しみであった。